minatoflare144’s diary

アウトプットの練習

しゃっくりを100回すると死ぬか

 死にません。昔何度も数えましたけど、100超えたことたくさんあります。最高は190とかでした。

 そもそもなんでしゃっくりを100回すると死ぬなんて話が出たのか、これはたしか僕が4歳くらいの頃に見た「ぼのぼの」でしゃっくりを100回すると死んで、しまっちゃうおじさんにしまわれてしまう、という回を見たからだと思います。この頃からしまっちゃうおじさんはトラウマものでしたね。しまっちゃうおじさんが出てくると観るのをやめていた気がします。最終的にぼのぼのはしゃっくりを100回しても死にませんでした。

 

 さて、この「100回」というのは自分で数えて100回なのでしょうか、それとも、100回した段階で死ぬのでしょうか。自分で数えて100回のほうを主観説、100回した段階で死ぬほうを客観説としましょう。

 主観説の場合、当然数え間違いが生じます。ちゃんと意識して数えていないと、多めにカウントしてしまったり、逆に数え忘れて少なくカウントしてしまったりします。これでは、正確な100回とは言い切れず、この説を採用するべきではありません。

 では、客観説の場合はどうか、この場、100回目は必ず正確に訪れているのだから、そのタイミングで死ぬことになります。しかし、結局客観的に100回を数えてくれる機能などはありません。したがって、誰も「100回目」を認識することができません。

 客観説を採用するべきですが、現実問題を考えると、主観説のほうを採用せざるを得ません。主観説の課題としては、意図的に数え間違いをして100回になるのを防ぐことができる、ということでしょうか。

 

 昨晩の僕は泥酔していて、しゃっくりがひどくて目が覚めました。数え始めてから98回目で、この状況で数えて100回するのは、生死は置いておいてまずい、と思いました。そして、大きく息を吸ったところ、とまりました。主観説なら、この場合しゃっくりは98回だったので、僕は死なないことになります。

 しかし、客観説ではどうでしょうか。僕は数え始める前に少なくとも2回は、おそらく50回くらいはしゃっくりをしていました。つまり、客観説であるならば、僕は既に死んでいます。僕は生きていたので、やはり主観説をとるべきでしょう。

 

 死ななかったからいいのですが、実際僕はアルコールの過剰摂取によって生死の境をさまよっていました。そんな状態でしゃっくりがとまらないのは、死ぬかと思います。苦しいですからね。

 

 しゃっくりを100回すると死ぬ、というのは、泥酔者がしゃっくりを100回していたら死の危険があるからちゃんと病院に連れて行ったほうがいい。ということから言い始められたことなのかもしれませんね。

 

 最後に、しゃっくりを100回しても死にませんが、苦しいです。もう二度と夜しゃっくりで苦しむような酒の飲み方はしません(フラグ)。

 

おわり